庄村米穀店
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上と雑穀

 

当地郡上八幡では夏の32夜にわたって、縁日おどり「郡上おどり」が開催されます。
約400年の歴史がありますが、その間のさまざまな生活の変化、さらには観光の目玉ということもあって、現在のスタイルに定着しています。

その変化の一つが歌詞であり、貧しい地域や辺鄙な地域を表現するものは、すべて削除されています。例が、

  ○ ○なあ コメ飯 盆正月か 親の出立ちか ご法事か

○○は地名。この場合の出立ちとは葬儀のことです。雑穀マニア?の皆さんはすでにお分かりでしょうが、蛇足ながら注釈をすれば。

○○は貧しいところで、白いご飯が食べられるのは親の葬式の日か、法事の日だけじゃそうな・・・・。

この歌詞に限らず。郡上は面積のほとんどが山林。そのため半世紀前までは、地元で食べる米麦を地元で生産することができない状態でした。

ブルドーザのような大型機械が普及する以前は、コメ作りに必要となる平地が少なく、しかも水利が不便。全国平均を大きく上回る降水量にもかかわらず、川と田の高低差が大きいため、農業用水を引くことが出来なかった集落も多くありました。

 一方、市街地を除けば一般家庭に水道・簡易水道が普及したのは近年になってからです。それまで水場といえば井戸や清水・山水・用水・カメやバケツへの汲み置き。多雪地帯での炊事は毎日が大仕事。そこで冬場に特に食べられたのが餅です。

ただし、白い餅は鏡餅・正月三ヶ日のお雑煮・餅花の3点のみ。雑穀やヨモギ・栃の実で増量するのは常で、モチ米ではなくウルチ米のしかも屑米を使っての餅も多く作られていたようです。

その雑穀餅文化が引き継がれたために残ったのが、在来雑穀のタネや加工の知恵。栃の実のアク抜きの技術です。

 雑穀をとりまく状況は大きく変わり、当店のような零細商店は風の前の塵のようなものですが、雑穀に寄せる思いだけはどこよりも強いと自負しています。

雑穀にはモノ語りがあります。

 


  

メと空気ボンベ

 

 何かと言えば「食の安全」。有機栽培にオーガニック・無農薬等々の言葉が、新聞や雑誌の上で踊っています。

 田舎で小さな穀屋を営む当店にも、こだわりのコメを作っている農家からは「買ってよ」、栽培を推進している行政からは「取り扱ってもらえんだろうか」と話があります。

コメは農協とお役所の厳格な管理下で作られた「減農薬・特別栽培米」。

一般常識を持った商売人なら、魅力的な商品であり、価格さえ合えば喜んで取引となるのでしょうが、今のところは扱う気にはなりません。

その訳は

 

トップページにも書いていますが、平成11年から約1000坪の休耕田を借りて雑穀を栽培しています。

多分、畑にいる時間は小規模の認定農業者よりも長いと思います。作業をしながら近所の田んぼや農家の倉庫で眼にするものは、イモチ病の防除剤や除草剤などの農薬はもちろん、畑作・稲作の肥料までさまざまな農業資材です。

 

その中でどうにも納得できなかったのが「有機肥料」の空袋。

大きな文字の一般的注意書きとは別に、スミの方に小さな文字で

 

この肥料には、動物由来たんぱく質が入っていますから、
家畜等の口に入らないところで、保管・使用してください。

原文のまま

 そうか。農家の皆さんが何かを背負って肥料を散布している姿、あの機械はたぶん空気ボンベだったんだ。

食の安全は消費者だけの安全でいいのかなあ・・・と思うのですが、そう言えば、お客様は神様でしたね。

 

 そのコメの行き先は・・・。とっても書けません。

 


 

ヶ関からアワの刈り取りにやってきた

 

 何かと話題に上るのがキャリア組と呼ばれる人達。

その中の若手職員が、雑穀栽培の研修に来られました。

農水省には「入省2年目の職員は1ヶ月間の農業研修」の制度があるらしく、行き先や時期は本人が調整とのこと。

 休耕田1000坪を借りて在来雑穀を作ってはいますが、当店はあくまでサービス業たる商業者。農業新聞に毎日のように掲載される助成金も補助金も無縁の世界です。

簡単に言えば、何のシガラミもない立場です。

研修先をコメ・果樹・花卉などの大型経営の専業農家でなく、また雑穀栽培ならすべてに機械化された地域もある中で、あえて当店を選んで来られたこの職員氏。

我が子と同年代の女性でした。

 

 郡上市での研修の1ヶ月の内、2週間ほどを当店で受け入れましたが、果たして研修の中身は?。  ・・・ひたすらアワの刈り取り。

フードの付いた麦わら帽子に腕カバー、首にはタオル、指先を切り取った軍手・・やる気いっぱい。

収穫バサミを持ってアワの穂首をチョッキン・チョッキン。畑の面積は15アール。単調な作業です。

零細な雑穀産地では縄文時代からほとんど進化なし。変わったといえば黒曜石のナイフが鉄のハサミに変わったことぐらいか。

 9月末とは言え、例年にない残暑の中、首に巻いたタオルも、半日で汗びっしょり。農薬を使わないため、あちこちの穂にはカメムシのカップル。まるで京都鴨川の夕暮れ風景。(たとえがよくない)

作業着にも車の中にも、あの臭いが・・・・。

 それにしてもよく働く人でした。聞けば、学生時代はワンゲルにいたとか。納得です。

休日は当店のヒミツ基地に立てこもり、近在の郷土史で常民の食の歴史を研究。

研修を終えて霞ヶ関へ帰ったことを知った田舎の老人達は寂しげでした。

 

ウーン、少しは見直したぞ農水省。

若手職員にエールを送ろう。

 

来年は食育や農業があーだこーだとノタマウ新米議員センセイでも来ないかな?

ハイヒール履いて。

 


 

ったいない

 世界的な流行語になったようですが、郡上のような山間地では昔からこの考えが定着しており、日常生活の中でも「有効に利用する・最後まで使い切る」行為が当然のように行われていました。

雑穀栽培を例にあげても、子実を食べるのはもちろん、2番・3番と呼ばれる未熟な部分や葉茎は鶏や家畜の餌に。牛馬を飼わない家は葉茎を畑に埋めて翌々年の土に戻す。丈夫な茎は茅葺き屋根の増量材に。穂の殻は農作業時のブヨ除けの蚊火(かび・かべ)に。使い道はまだまだあったようです。

たとえ燃やしても灰は山草のアク抜きに使うなど、すべてが無駄のないよう利用されてきました。

畑の邪魔者である雑草も例外ではなく、そのまま埋め込んだり積み上げて堆肥にして、肥料分のある作り土をして決して畑の外には持ち出さないのが、お百姓さんの心得でした。

ところでこれからが本題です。

昨年秋は週末毎に台風に襲われました。私のアワ畑も当然のように被害があり、風で倒され泥水に浸かり、大根を抜くような収穫作業をしました。

その時の考えは、ただ「もったいない」だけでした。

寒風の残る3月から何度も何度も畑を耕し、蒔いたばかりの貴重なタネをスズメから守るため糸を張り、蒸し暑い土用から炎天下の8月まで数度の草むしり。

その結果が、喜びのない収穫作業でした。

このまま収穫放棄はもったいない。とりあえず収穫さえすれば何とかなるだろう・・・・と思うのはモノ作りをする人なら誰でも考えることでしょう。

ところが、これがたいへんでした。

ハサに干して脱殼機にかけると土埃が巻き起こり、脱皮や精白作業中も部屋中に土埃が舞う始末。

仕方なしに導入した小型の石抜き機も、土と砂の中間サイズには不完全。

雑穀を日常的に利用してきた人は、ユナゲル・イナゲルの手法で容易に砂粒を除去されますが、雑穀ブームで生まれた新世代ユーザーにはちょっと無理か。

「砂が入っています・・・」のクレームが入るたびに、心の中で「やはりあの時、埋まった物は捨てた方がよかったのかしら」と日々考えます。

 


 

「朝鮮びえ」はややこしい

 標準名はシコクビエと言うことになっていますが、これほど地方名が多い雑穀は珍しく、60以上が確認されています。

マタビエ・アカビエ・カマシ・貧民救済に尽力した弘法大師が普及したので弘法ビエ・外国から渡来した意味からオランダビエ。江戸中期に幕府の指示で飛騨の代官が産物をまとめた飛州誌によればシシクハズ(猪食わず)・・・等々。

しかし何と言っても日本中でいちばん知られているのが朝鮮ビエ。標準名がほとんど認知されていないネジレ現象です。

最近ではラギ(インド)やクラッカン(スリランカ)の名で輸入されたものが流通し、益々ややこしくなっています。

 数年前、ネット通販の商品名に朝鮮びえの名称を使用したところ、消費者運動家から「差別用語である・・」と痛烈に糾弾されたことがあります。

推察力の豊かな人なら、地方名から朝鮮びえ(シコクビエ)という作物は、異国から渡来したもので、救荒作物として重用されてきたものと容易に考えることができると思うのですが。

 朝鮮びえは早めに播種・移植をすれば、8月末には食べることができ、しかも耕作地を問いません。

ただし、他の穀物には比べものにならないほど手間がかかり、そのため当地には「朝鮮びえを作らぬ者にはカネ貸さぬ」という諺があるほどです。

もしもその意味を知りたい人、9月から10月半ばの内に当店の畑へお出かけください。涙拭くハンカチーフ持って♪。

 

PS.

朝鮮びえの原産地はアフリカです。

江戸時代から昭和20年代まで、全国の山間地でコメ・ムギの不足分を補う作物として重用されていましたが、今では国内の推定栽培者30名。

その1人が私です。

ちなみに、世界中の雑穀を研究している諸先輩によれば、とある国には朝鮮びえは普及しておらず、もしこれがあれば、これほどの食糧危機は起こっていないだろう・・とのことです。

 


成16年 はたつもの報告

 昨年の冷夏・米不足から一変し、今年は猛暑と台風に終始した一年でした。

雑穀は干ばつにも多雨にも冷夏にも強いというのが、昔から学者の間では定説となっており、雨後のタケノコの如く発売される雑穀本も、その説を踏襲しています。

ところが実際は・・・そんなに甘くは無いです。

殊に顕著なのがタカキビ。郡上の在来種は草丈3メートルにもなる長稈種のため、実が大きくなる8月の雨不足は大凶作につながります。
私の作った1反の畑は収穫量たった15kg。予定の1割。
89歳と82歳の昔青年の畑では一粒の収穫もありませんでした。

思い出せば、一昨年の夏も小雨で、やはりタカキビは不作。
地球が温暖化していく中で、小雨の年に長稈の在来種は不利のようです。

 干ばつの後は台風の連続。大被害でした。

今年はアワの大豊作と皮算用をしていたところへ、週末ごとに台風の襲来。
たわわに稔った穂はことごとく泥水に浸かり、芋掘りのような収穫をしました。
熟したアワはいたって生命力が強く、ハサ干しをしていても次々と穂発芽・発根。
大量の泥と砂粒が混ざってしまったため、先日は仕方なく石抜き機を買い足しました。

 数年間から信州の篤農家のみなさんにも、その地域の在来種雑穀を作っていただいております。

今年の台風のルートでは、岐阜県と長野県の間にある日本アルプスが壁となり、台風のパワーがことごとく分散されたため、幸いにも信州の雑穀は豊作でした。

 現在、雑穀は生産地の一極集中に向かっていますが、気候気象の変動に対する備え、栽培から利用方法・地方での呼び名までを含めた雑穀文化を考えると、それぞれの地域でそれぞれの品種を育てることの大切さを痛感した一年でした。

 

しこくびえについては次回・・・

 


統食材を伝統建築の店で

 繕いを重ね120余年、耐震補強を兼ねた店舗改装が完了しました。

制震構法は金物を使わない木組みで、壁は漆喰、柱や梁はベンガラ塗装の上に荏油仕上げ、床は郡上色の三和土コンクリート、敷居は郡上石、電灯は電球色、陳列台はすべて地元の山に自生する樹種の無垢板・・・。

伝統の道具が伝統建築を支える
-面取り鉋-

壁の黄漆喰仕上げ
鏝を握って52年の左官 後藤直二さん
郡上八幡の職人技と材料の集合体的な店になりました。

伝統工法による町屋再生・地元の落葉樹を活かした住宅・店舗等に興味をお持ちの方、ぜひ見学にお出かけください。


店舗正面


内に縁側を・・・ 店舗改装中です。

 

 地震への備えと快適な買い物空間の提供、そして楽しい店番ができるよう、平成の大改装修を進めています。

平成16年7月初旬には完了予定。

町屋再生・地元の落葉樹を活かした住宅・店舗等に興味をお持ちの方、夏になったらぜひご来店ください。

○ 当店は明治14年の建築(当時は旅籠)と推測される古い町屋のため、一般的な耐震補強は不可能です。
特に開口部の中央に柱が無いため、横揺れに対する不安があります。
現状のイメージを損なうことなく、伝統工法で安全安心な買い物空間を提供することが今回の大きな改装目的です。

○ 賑わいと潤いを形にしたい。

バスツアーの団体客を呼び込むつもりはありません。
病院帰りの近在のお年寄りが、ちょっと休んで昔の話しをする。遠方からのリピーター客と、それぞれ地域の食文化を交換する・・・等、「食文化の駅」を目指しています。
夏は冷たい麦茶でも飲みながら、冬はストーブで焼いた餅の端切れを食べながら。
そのためにも2・3人が座れるスペースとして、店内に「縁側」を設けます。

○ 店舗自体が「郡上の職人仕事」の展示場となればと考えており、できるかぎり伝統工法と地元の材料で仕上げます。

補強柱と梁は金具を使わない伝統工法の木組み。
壁の一部に張ってある化粧合板を剥がして昔どおりの漆喰壁に。
土間は普通コンクリートを、郡上色の三和土(タタキ)風コンクリート仕上げ。
敷居には郡上市明宝地区より産出した「郡上石」と呼ばれる固有の御影石。
腰板と商品の展示台は「郡上の山に自生する落葉樹のムク板」で製作し、それ自体が約15種類の板材標本となります。

○ 「ミニミニ博物館」構想

道路から箱段や3畳の座敷が望見できるようにして、桃の節句や端午の節句の飾りなどを展示します。
そのほか、当店で使用していた秤や桝・古いレジスター等の道具も適宜に展示する予定です。

 


節外れですが、注連飾りの話し

 

 今年から当店の注連飾り(しめかざり)を変えました。

「蘇民将来子孫家之門」と書かれた木札と橙が添えられたもので、本来は三重県伊勢地方に特有の慣習です。

通常、注連飾りは松の内だけのものですが、これは通年飾ることになっています。

蘇民将来・巨旦将来兄弟とスサノオノミコトの物語については諸説ありますが、その一例を要約すると

 その昔、スサノオノミコトが旅の途中、伊勢の国で陽が暮れてしまい、宿を豪邸の主である巨旦将来に頼んだが、冷たく断られてしまった。

ところが、蘇民将来は貧しい暮らしにもかかわらず、粟の座をすすめ粟粥でもてなした。

その夜、疫病の襲来を予感したスサノオは、茅の輪で蘇民の家を囲った。

一夜明け、巨旦一族は疫病で滅びていたが、蘇民一族は難を逃れた。

スサノオは旅立ちに際し「「蘇民将来子孫家門」の木札を入り口に下げれば、災いから免れることができる」と言い残して旅立った。

以来、蘇民一族は代々栄えた・・・・・。

今どきの疫病は新型インフルエンザかSARSか。

 

トップページにもあるように、現在の私は商業者であり百姓でもあります。

しかもアワ・ヒエ・タカキビ等の。

この時代、「蘇民将来子孫家門」の注連飾りを下げたアワ栽培者は、私ぐらいかなぁと思いつつ、この秋はアワの殻で座布団を作ろうとか、店鋪の一部をリニューアルして、雑穀談義(略して雑談)ができるスペースを・・・と考えています。

 


「粗食のすすめ」に落胆する

 

春まだ浅い3月下旬、中山間地に吹く風はまだ冷たい。
その頃から雑穀作りの仕事が始まる。
小型管理機での耕耘を4月末までに3〜5回も行う。単に土を軟らかくするだけでなく、すでに雑草との格闘が始まっているのである。

世間が黄金週間と浮かれている頃、いよいよ種蒔き。親指・人差し指・中指を巧みに使いパラパラと落とすか、手動式播種機「ごんべえ」を押す。
雑穀に芽が出れば、当然のように雑草も芽がでる。アワ・キビは葉が繁るまで、タカキビは刈り取り寸前まで草を抜き、土を根本に被せる。

土用の中耕は蒸し暑さの中、真夏の草取りは炎天下。1日5リットルの水を畑で飲む。汗が流れる首筋にアブラムシが降る。
夕方には蚊とブユの猛襲を受け、30分で数十ケ所が腫れ上がる。

秋、収穫。雑穀は縄文時代と同じ穂首刈り。変わったと言えば、石器が鉄製の鎌に進歩した程度か。
乾燥はハサ架けかブルーシートで天日干し。お天道様のご機嫌しだい。
脱穀は手で叩くか、他用途の機械の転用。専用機は無い。
最後に精白、昭和25年製造の精麦機をなだめながら、おだてながら。


ここまで手を加え育てた食べ物を、「粗食」とは情けない。
私を含め全国の雑穀栽培者は、誰一人として仕事に手を抜くことも粗雑に扱うこともない。

今までのひとりごと 2/1/



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