「やっちく」鈴木主水の巻
- 花のお江戸のその傍らに 聞くも珍らし人情ばなし
- ところ四つ谷の新宿町よ 紺ののれんに桔梗の紋は
- 音にきこえし橋本屋とて あまた女郎衆のあるその中に
- お職女郎の白糸こそは 年は十九で当世そだち
- 愛嬌よければ皆人さんが 我もわれもと名指しで上る
- わけてお客はどなたと聞けば 春は花咲く青山あたり
- 生れは濃州郡上のごおり 鈴木主水という侍よ
- 女房持ちにて二人の子供 五つ三つはいたずらざかり
- 二人子供のあるその中で 今日も明日もと女郎買いばかり
- 見るに見かねて女房のお安 ある日わが夫主水に向かい
- これさわが夫主水様よ わたしゃ女房で妬くのじゃないが
- 子供二人はだてには持たぬ 十九や二十の身じゃあるまいし
- 人に意見も言う年ごろに やめておくれよ女郎買いばかり
- 金のなる木を持ちゃさんすまい どうせ切れるの六段目には
- 連れて逃げるか死情(しんじゅう)するか 二つに一つの思案とみえる
- そして二人の子供が不憫 子供二人と私の身をば
- 末はどうするわが夫様よ 言えば主水は腹立ち顔で
- 何んの小癪な女房の意見 己が心で止まないものを
- 女房だてらの意見じゃ止まぬ 愚知なそちより女郎衆が可愛い
- それが否なら子供を連れて そちのお里へ出て行かしゃんせ
- 愛想づかしの主水のことば そこで主水はこやけになりて
- いでて行くのが女郎買い 姿あとでお安は聞く悔しさと
- いかに男はわがままじゃとて 死んで見しょうと覚悟はすれど
- 二人の子供につい引かされて 死ぬにゃ死なれず嘆いておれば
- 五つなる子がそばへと寄りて これさ母さんなぜ泣かしゃんす
- 気色悪けりゃお薬あがれ どこぞ痛けりゃさすってあげよ
- 坊が泣きます乳くだしゃんせ 言えばお安は顔ふり上げて
- どこも痛くて泣くのじゃないが 幼なけれどもよく聞け坊や
- あまりとと様身持ちが 悪い意見いたせば小癪なやつと
- たぶさつかんで打擲なさる さても無念な夫の心
- 自害しようと覚悟はすれど 後に残りしそちらが不憫
- どうせ女房の意見じゃ止まぬ さればこれから新宿町の
- 女郎衆頼んで意見をしよと 三つなる子を背中に背負い
- 五つなる子の手を引きまして 出てゆく姿のさも哀れなる
- 行けば程なく新宿町よ 店ののれんは橋本屋とて
- 見れば表に主水の草履 それと見るより新造を招き
- わしはこちらの白糸さんに どうぞ会いたい会わせておくれ
- アイと新造は二階へ上り これさ姉さん白糸さんよ
- どこのお女中か知らない方が 何かお前に用ありそうな
- 会うてやりゃんせ白糸さんと 言えば白糸二階を下りて
- わしを尋ねるお女中というは お前さんかえ何用でござる
- 言えばお安は初めて会うて わしは青山主水が女房
- お前みかねて頼みがござる 夫主水は勤めの身分
- 日々のお勤めをおろかにすれば 末は御扶持に離れるほどに
- ここの道理をよく聞き分けて どうぞわが夫主水殿に
- 意見なされて白糸さんよ せめてこの子が十にもならば
- 昼夜揚げづめなさりょとままよ または私が去られた後で
- お前女房になりゃんすとても どうぞこののち主水殿が
- 三度来たなら一度は上げて 二度は意見をして下しゃんせ
- 言えば白糸ことばに詰まりわしは 勤めの身の上なれば
- 女房持ちとは夢にも知らず ホンに今まで懇ろなれば
- さぞや憎かろお腹も立とう わしもこれから主水様に
- 意見しましょうお帰りなされ 言うて白糸二階へ上がる
- ついに白糸主水に向い お前女房が子供を連れて
- わしに頼みに来ました程に 今日はお帰りとめては済まぬ
- 言えば主水はにっこと笑い 置いておくれよ久しいものだ
- ついにその日は居つづけなさる 待てど暮らせど帰りもしない
- お安子供を相手にいたし もはやその夜は早や明けたれば
- 支配方より使いがありて 主水身持ちが不埒じゃ故に
- 扶持も何にも召し上げられる後で お安は途方に暮れて
- あとに残りし子供が不憫 思案しかねて当惑いたし
- 扶持に離れて長らくおれば 馬鹿なたわけと言われるよりも
- 武士の女房じゃ自害をしよと 二人子供を寝かしておいて
- 硯とり出し墨すり流し 落つる涙が硯の水よ
- 涙とどめて書き置きいたし 白い木綿で我が身を巻いて
- 二人子供の寝たのを見れば 可愛いかわいい子に引かされて
- 思い切り刃を逆手に持ちて ぐっと自害の刃のもとに
- 二人子供は早や目を覚し 三つなる子は乳とりすがり
- 五つなる子は背中にすがり これさ母さんのう母さんと
- 幼な心でたゞ泣くばかり
- (以下略)
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