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郡上おどり

郡上おどりポスターコレクション 

 “郡上の八幡出て行くときは、雨も降らぬに袖しぼる”を代表歌詞とする「郡上節」は、今や全国を代表する盆踊りとして愛されています。郡上おどりのさかんになった起源は不明ですが、慶長年間(1600年頃)藩主遠藤慶隆が、領民の和を保つため、年々孟蘭盆会にあたって踊を奨励したものともいわれ、又一説によると、宝暦八年十二月(1758年)青山幸道が農民一揆のあと、前任地の丹後宮津からこの地に移封されて、城主となってから城下の領民の和を図るため、毎年盆踊りを楽しむように保護奨励したことが始まりであるとも言われています。以来四百有余年歌い踊り続けて来たので年とともに盛んになり、本場郡上八幡では毎年七月から九月にかけて、ほとんど毎夜のように「郡上おどりのタベ」を、縁日の場所において繰り展げています。
 徹夜で踊りぬくお盆の四日間は、老若男女が一団になって、時には数千、数万の踊り子が一つの輪になって音頭に合わせ、手拍子をそろえて踊ります、郡上おどりならでは見ることの出来ない絵巻であり、味わうことの出来ない和楽です。元来が見る踊りでなく、一緒になって踊り楽しむおどりなので、誰でもゆかた姿で気軽に出かけて踊りの輪に入ることが出来ます。また、踊りの種類も10種あり徹夜で踊っても飽くことなく、つい天ノ川原が西東になるまでも踊り抜いてしまうのです。

 

 

古調かわさき

郡上の八幡出ていく時は 三度見かえす枡形を

天のお月様 かか盗まれて 雲のあいから カカカカと

今宵一夜は 浦島太郎 明けて悔しや 玉手箱

お前二十一 わたしは十九 四十仲良く 暮らしたい

 「かわさき」と名のつく盆踊りは口説きとして、北陸路にも多く分布しています、越中や、加賀の農村で踊られたところからなかには、加賀崎などと呼ぶところもあったようです。「古調かわさき」は、その手つきや足の踏み方などを見ても、昔の農耕の所作が取り入れられて、歌詞も飾り気のない庶民生活に根ざしたものや、作業唄が残されていかにも奥美濃の純朴な人情、風俗に似つかわしい踊りです。

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かわさき

郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる 

天のお月様 ツン丸こて丸て   丸て角のて そいよかろ

郡上の殿様 自慢なものは   金の弩標に 七家老

日照りしたとて 乙姫様の 滝の白糸 切れはせぬ

 享保年間勢洲(伊勢)古市の里で唄われた川崎音頭が参宮道者によって郡上の地に伝承され、山紫水明の環境の中にさまざまの変遷をたどり、現在のおどりになっています。

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三百

今年はじめて三百踊り おかしからずよ 他所の衆が

越前歩荷(ぼっか)の荷なら そこに下すな 鯖くさい

音頭取りめが 取りくだぶれて さいた刀を 杖につく

禿げた頭を やかんじゃと思て 番茶つまんで 叱られた

 宝暦八年、丹後の宮津から国替えになった青山大膳亮幸通が、長途の労をねぎらい、供の者上下の差別なく三百文の金子を賜った感激がはやしとなって、二百三十余年の歴史をもち「春駒」と共に代表歌です。

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春駒

郡上は馬どこ あの磨墨の 名馬出したも気良の里

私ゃ郡上の 山奥育ち 主と馬ひく 糸も引く

様が三夜の 三日月様を 宵にちらりと 見たばかり

親の意見と なすびの花は 千に一つの 無駄はない

 幕末から明治にかけて、春先になると越前の油坂峠を越えてやって来た鯖売の呼声が、はやしとなり踊化されたという一説もありますが、日本的マンボの旋律を有する威勢のよいおどりは、逸馬(はやり馬)を制するそり身の姿勢から両手綱をさばきながら横とびに廻転し、磨墨の名馬以来、馬にゆかりの深い郡上にふさわしいおどりです。

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猫の子

猫の子がよかろ 猫でしやわせ  ねずみょ取る

猫がねずみ取りゃ いたちが笑う いたち笑うな われも取る

てっかりてっかりてっかりと 金のようらく 下げた様な

来るか来るかと 待つ夜は来ずに 待たぬ夜に来て 門に立つ

 郡上の民謡は、特定の作者が作詞したものでなく、文字を知らない民衆が生活のまにまに踊の和楽の中に口をついて出る即興のもので、それが民間に伝承され作業唄となり、盆踊り唄となり、お座敷唄となって時代の変遷に沿いながら成長を遂げたものであって文字の詩でなく音の詩であり農民の声調にのって初めて詩になったものです。

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さわぎ

呑めよ騒げよ一寸先ゃ闇よ 今朝も裸の下戸が来た

花が蝶々か蝶々が花か 来てはちらちら迷わせる

若い娘と新木の船は 人が見たがる乗るたがる

一夜寝てみて寝肌がよけりゃ 妻となされよいつまでも

 元禄時代に流行した騒歌は、遊里で三味線や太鼓を用いて賑やかに唄ったもので、地方での騒ぎは、酒宴などで賑わしく唄い踊ったことをいったものです。また、江戸中期以降には、他所からの出入りを許された旅芸人などによって伝えられたものらしい。郡上では、この踊りに三味線も太鼓も入れないが、派手な手拍子と、ことさらに踏み鳴らす履物の音が勢いよく響いて見物衆を興奮させる。歌詞には、男女の情緒を唄ったものが多いようです。

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甚句

やぐら太鼓に ふと目を覚まし 明日はどの手で 投げてやろ

嫁をおくれよ 戒仏薬師 小駄良三里に ない嫁を

盆じゃ盆じゃと 待つ内ゃ盆よ 盆がすんだら 何を待つ

いやなお方の 親切よりも 好きなお方の 野暮がよい

 甚句という盆踊歌は、地の句が鈍ったものといわれ各地の歌詞にもその地方で唄いつがれたものが多い。詩形は、ほとんど七・七・七・五調からなるもので囃子詞や節回しは、それぞれに異っており郡内でもまちまちです。

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げんげんばらばら

げんげんばらばら何事じゃ 親もないが子もないが

 一人貰うた男の児 鷹に取られて今日七日

 七日と思えば四十九日 四十九日の墓参り おばんところへ一寸寄りて

 羽織と袴を貸しとくれ あるものないとて貸せなんだ

 げんげんばらばらは、徳川中期以後に童女の手まり唄として伝承され踊化されたものであり、おどりは「内掛」の裾を足にさばき、長い垂れ袖を手にうけて交互にかざすみやびやかな動作は、盆おどりというよりは、哀調優雅で殿中舞といった風のおどりです。 また踊り歌としては入幡町のみで行なわれます。

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ヤッチク

これは過ぎにしその物語 聞くも哀れな義民の話

 時は宝暦五年の春よ 所は濃州郡上の藩に

 領地三万八千石の その名金森出雲の守は

 時の幕府のお奏者役で 派手な勤めにその身を忘れ

 四万八千石の城下町として栄えた郡上八幡の町には幕末から明治にかけて、色々の旅芸人が入りました。中でも両の手に八枚の竹を打ちならし唄ったかどづけが「八百屋お七」「鈴木主人」のようなくどき唄を哀調をこめて唄い廻ったのが、民衆の共感を呼んで踊り化したといわれ、吉田川の瀬音が四囲の山にひびく夜が更けてしずんでから踊られます。

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まつさか

鵜舟の篝火赤々と 世にも名高き長良川

 その水上の越美線 郡上八幡名にしおう

 三百年の昔より 士農工商おしなべて

 泰平祝う夏祭り 音頭手拍子面白く

 江戸時代に盛んに行われていた伊勢神宮へのお陰参りで、諸国から集まってくるその参詣者たちが、伊勢の古市あたりで習いおぼえた「木遺」の♪松坂越えて坂越えて坂の峠で日が暮れて・・・。という木遺音頭を、郷里へ帰ってから、その土地の盆踊り口説きに同化してひろめたものといわれています。郡上の「まつさか踊り」の囃子詞にある「ア、ヨイヤナ、ヤートセ」は伊勢音頭の「ヤートコセ、ヨーイヤナ」の変化したものです。踊りの手振りや足の運びかたが比較的単調であるのに、長い伝統をもっているということは、その歌詞が諸種の語り物から、地元の名所案内や、郷土の伝説などにつながる口説節になっていて、多くの人々から愛着をもって迎えられているからでしょう。

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